記録の探り

  14, 2016 16:10
ちょっと前の保護ねこの印象に(自分コンタクトの内容に) ”お寺などの修(行)員のひとり” って記録があってですね。(お寺もちょっとずれがあるかもなんだけど)行って部分が 記録の時点で「ちがう、単語が似てる別の漢字で別の意味であるのも知ってるけど出てこないから代用記録」として記していたもので。(修◯員ていう感じで○が絶対違うっていう感覚)
で 先日ふっと あ「修道」だ って繋がって。けどそもそも修道ってなんじゃい?修道員のひとりって?そんな言葉あるんかいなって調べてみたら。
キリスト教用語?だったらしく。

以下ウィキより引用です‥‥


 修道士は、修道誓願を行い、禁欲的な修道生活を送る人々のことである。

 修道会に入ることを希望するものは志願期と呼ばれる試しの期間を持ち、修道院で生活する。清貧・貞潔・服従の三つの誓いを掲げている。(カトリック教会の修道者より)

 修道は、妻帯せず姻戚にしばられず、さすらい、極貧に生き、断食し、祈りに明け暮れた、ハリストスの生活に倣う事を目的とする。また、修道は心の内奥の生活であり、天の王国に通じる「狭い道」であるハリストス信仰を絶対的に表す生活である。ただし修道士は近しき人々や世界に対する愛を欠く訳ではなく、俗世の外にありながら、庵の静寂の中で全世界のために祈る。修道士は積極的性や激しい社会活動によって世界を改良するのではなく、世界が内面的に変容するように自分自身を変容させようと努めるのである。(正教会の修道士 より)


ちなみに大辞泉ではこのようでした。


1 道義をおさめること。
2 宗教・学問・芸道などを学び、身につけること。

1 仏道を修行すること。
2 仏語。三道の第2の位。見道で悟った真理を、具体的な事象の上で反復して観察する段階。


‥‥
修道員という言葉は無く(多分) これはわたしの造語かな って思ったんですけど そういう会員?グループみたいな記述がありました。
確かになんかグループの一人みたいなそんな感じ。(後出しにきこえそうではありますが)

この 戒律を守って的な
”志願期と呼ばれる試しの期間を持ち 修道院で生活する”
…これってまるで今の状態じゃありません?(汗) ある意味決められた枠内でしか自由ではない状況…衣食住は確保されてはいるけれどな状況‥
(さすらっては居たけど^^極貧食事や意味のない断食等はさせてないですからねーー!(笑) 衣住に不便や物申したいはあるでしょうけれども>_<)

修道員と守り神みたいな と感じたのって全然違うじゃん、て思うんだけど^^;その辺りはわたしにもわかりませぬ。
あと守って欲しいわけじゃない人が大半かと思うのだがその辺りはどうなのだろうね?(これはどう調べていいのかわからず特に深堀しておりませんが そのままの意味ではないのかもしれませんね。)
修道員に関してはキリスト関連の記しだでもあったようだけど これってヘミシンク流しながら訊いてたの関係あったりするんでしょうかね。(ヘミシンクてキリスト教界隈の方が制作?らしく??)


大辞泉の仏語の意味は難しくて更に調べてみました。
見道:


真理を知るための煩悩(ぼんのう)に汚されることのない智慧(ちえ)を起こして仏教の基本的真理である四諦(したい)を知性的な理解ではなく直観的に明瞭に見る位。見諦道。見諦。


四諦(したい):


現実の様相とそれを解決する方法論をまとめた4つの真理である「苦・集・滅・道」のこと。
苦諦(くたい) - 一切は苦であるという真理
集諦(じったい) - 苦には原因があるという真理
滅諦(めったい) - 苦は滅するという真理
道諦(どうたい) - 苦を滅する道があるという真理


…これ…当事者の私とうちの仔とあの子しかわからない事ではあるんだけれども。言っている意味も分からないと思うのだけれども。心当たりがあるというか。この文章を理会したとは到底思っておりませんが なんとなく感覚で伝わってくることに関して、だけでいえばですが。少なくともわたしの中では繋がる部分があるように思う事と、内容自体がわたしに必要である事と感じました。(反省含む)

で、同時に。やっぱり、わたしが汲み取っている事というのはほんのほんの表面的な言葉の表現だなとも。
どんどんそれを掘っていったら辿り着くけれどもそうしないと表面的なぼややっとしたものしか伝わらない。伝えようとしても限界がある。たぶん。
受け取り側との連携は勿論ある一定は必要かとは思うけれども、わたし側が培っている情報量が圧倒的に少ない。(一点集中的なものはあるんでしょうけれどもオベンキョウの意味合いでは本当に体裁を取繕う的な感じでしかしてきませんでしたので。汗)
コミュニケーションの記録を残している時の文面というのは 基本 その人その人の生い立ちの中から引き抜いて表現されているように思うので、雑学や色んな書籍を読んだり話を聞いたり目で見たり耳で聴いたり手で触れたり、五感を味わってそれを表現する、インプットアウトプットのようなものはとても大事と思う。 (足しなさいというメッセージでもあったと思う。)

なんだけど。
ある程度はそういった関連も必要とは思うけど、根本的にはそういうことではないのかもしれないーーー(この辺わたしの中でもまだぼやぼや)




追記:
これも…タイミングなんですね… 修道という単語に繋がったも簡潔に意味を調べたのももっと前で、今回blogに上げるにあたって再検索で辞典からもひっぱってきたわけですけれども。今のタイミングだからそう思ったのだなと思いました。(辞典の部分に関しては追記したもので)
あの時に調べてたとしても繋がる部分も気付く部分もなかったのだろうなと…いや そもそもあの時に調べたとしたらそれはそれで別の終着があり今とは別の気付きがあったのかもしれませんよね。
なんかこうやって幾重ものルートが張り巡らされているような気もしますね…